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百連だこ揚がる 一つ葉浜にて
お正月に凧揚げをする光景を昨今はほとんど見ません。河川敷で、親子で凧を揚げている姿はもう失われていくのでしょうか。
そこで、鮮やかに想い出すのは、1994(平成6)年1月15日に、一つ葉浜において、当所の親子たちと凧揚げをし、その節、楠元幸憲先生自作の百連凧を、自ら揚げていただいた時の様子を振り返ります。
連凧をとおして
楠元 幸憲
普通の凧は小さい頃から近所の友達とよく作っていました。しかし、蓮凧を作って揚げるようになったのは約十年前からです。当時家族の年齢を合計すると、ちょうど百歳でした。そこで一本の糸でつないだ百個の凧を新春の大空に揚げてみようというのが蓮凧を作り始めた動機でした。それから毎晩家族そろっての凧つくりです。そのころは要領も悪く思うように出来ませんでしたが、出来上がった凧を一個ずつ数えながら、箱の中になおしていく時のよろこびは格別のものでした。それと出来上がった凧を海岸で揚げた時の、新春の風をいっぱいにうけて、一個一個空高く揚っていくときの喜びと、たこ糸の引きの強さは今でも忘れることは出来ません。
それ以来クラス担任になると、生徒達と一諸に特活を利用してよく連凧を作っていました。「高校生にもなって……」と最初は、はずかしがっていた生徒達もそのうちに慣れ、一人二個ずつの凧はすぐに出来てしまいました。出来上がった生徒達はグランドに出て凧揚げです。自分たちで竹ヒゴを曲げて、ビニールをはって作った凧ですから出来、不出来はでてきます。当然よく揚がるもの、揚がらないもの出てくるわけです。しかし以前までははずかしそうにしていた生徒達が我を忘れて凧糸を持ってなんとか自分の作ったものを一生懸命走りまわっている姿は、ほほえましいものがありました。つぎは各自が作った凧を一本の蓮凧として揚げるのです。スーパーコピー 時計よく揚がる凧もあれば、なかには揚がらない凧もあるわけです。しかし、一本の糸につないだ凧は風をいっぱいうけて次から次と、心配していた凧も空高く揚がっていき生徒達は手をたたいて、声をあげて喜び合いました。そしてこの蓮凧を見て生徒達は、よく揚がる凧は自分でもより高くあがろうと頑張り、よく揚がらない凧があれば少しでも高く引っ張りあげ、また揚がらない凧もなんとか自分で、より高くあがろうと頑張っているからだと感じたと思います。
「私達も優れたところはより優れたものになるよう頑張り、劣っているところがあれば優れた人に少しでも近ずくように頑張っていきたいものです。お互いに助け合い、協力しながら少しでも立派な人になりたいものです。」と蓮凧を通して話をしています。
この東高校でもいろいろな方がたくさん頑張っておられます。私はこの学校に来て生徒さんに教えることより、教えてもらったことの方が多かったような気がします。
ぜひ皆さんも、たくさんの友達と接し、“友に学ぶ”気持ちで頑張ってほしいと思っています。
百連だこ揚がる
百連だこは、どのようにして揚げるのだろうと、好奇心をもって私は揚げてくださる楠元先生の手さばをきじっと見守った。
先頭の凧が一つ空中に躍り出すや、次々に又一つ一つと揚がっていく。それはもう一種の生きものである。
自力で天空をおし分けてぐんぐん揚がっていく。私は今、揚がるという言葉を使っているが、凧は揚げるものと理解していた。何も揚げなくていい。揚がっていくものだ。揚がるというのは国文法でいえば自動詞である。凧が人の手を離れた時、即ちその接点から揚げるが、揚がるに変化する。「今、50個揚がってますよ」と主任保母も見学者全員に揚がると知らしていた。
あたかも龍さながら天空を泳ぎ昇るさまに熱っぽい感動を覚え、そうだ、子供たちは凧と同じなのだ。自ら未来へ向かっていくすばらしい力を秘めている。子供たちは生まれ落ちた時、もうすでに揚がる凧なのだ。それを支えてくれるのが風=環境なのだ。
新春の陽光を浴び、海風をいっぱいに受けて百連だこは太陽に向かって揚がっていく。さぐるように可能性を求めてー。
我々大人は子供たちにとって条件のよい環境を整えてあげよう。今日のような凧日和にー、と観じたのは私だけであろうか。
園長 猪俣美智子
注:・ 当時の「園だより」より。
・当所のホームページ「保育所のニュース」欄に、その時の様子が宮崎
日日新聞(1994.1.17)に、又「NHKみやざき630」でテレビ放映さ
れた記事があります。